東京に来て好きになるものが、読書だとは思わなかった
私は本をほとんど読んで来なかった人間です。
20歳になるまで、本と真剣に向き合ったことなんてありませんでした
アニメが好き、運動が好き、読書が好き…のように、「趣味の一つ」程度にしか思っていませんでした。そして、たまたま自分はその趣味には合っていない。今までも、これからも、特に関わることは無い存在だと思っていたのです。
あえて、私の今までの読書との少ない関わりを書いていきます。
小学校から高校までは何回か、特に小学校では頻繁に図書館へ行く時間が設けられていた記憶があります。
私は9歳頃までアメリカに住んでいて現地の学校に通っていたのですが、
そこで本を子供に沢山読んでもらうため、図書館から借りて読んだ本の冊数だけ自分の欄にシールを貼るための表が教室内の壁に貼られていました。
人に褒められたい、とにかく注目されたい私は毎日図書館で5冊の本を借りては全く読まずに返却し、シールを貼りまくっていました。
確かその時、図書館のマダムが私の借りた本のひとつを見てこれは面白いとその本の粗筋を紹介してくれた覚えがあります。もちろん最初から読む気もない私は関心ももたず聞き流していたと思います。
あまりにも毎日毎日大量の本を借りてはすぐ返しているのですから、ある日マダムは顔を顰めて「本当に読んでいるの?」と聞いてきたのです。今思い出すと心が少し痛くなります。
当たり前ですが一人だけシールの数が違和感があるほど飛び抜けており、今までの日数と照らし合わせて計算しても現実的でないと気づかれた私はある日呼び出され、私が以前借りた本を手に持った担任の先生に質問をされました。「この本はどんな話でしたか?」と。
当然読んでいない私はその本がどんな話だったか知るはずもなく、しかし白状することもなく表紙とタイトルで思い浮かんだ話を適当に絞り出したのです。
先生は実際にその本を読んで確かめていたかそうでないか、元々知っていた本だったかは分かりませんが、特にその後何かを言われることはありませんでした。当時の私は乗り切った、ばれなかったと思っていましたが、今思えば全部とっくにばれていたのでしょう。
私があの時もっと本を誰かに褒められるためなんかに利用せず、真剣に向き合い魅力を知っていれば、本を愛するあの優しいマダムとも何か通じ合うものを持てたのでしょう。彼女らの記憶に私が残っているとするなら、きっとただの意地汚い、賢くもない狡い子供なのです。事実ですし。
帰国して日本の小学校に本格的に通うようになってからも、私はやはり注目される事ばかり考え、読んだ本を発表するという場のために難しそうな本、福沢諭吉の伝記を選んだのです。
私がそれを発表した時は周りの子も先生も、すごい!と呟いていました。それで私はとても満たされるような気持ちでいました。そんなことより、読んだ伝記の内容で心を満たされてみていてほしかった。一通り読んだ記憶はあるのですが、内容はほとんど覚えていません。
自分をよく見せることばかり考えていて、本はそのための道具だとしか思っていない。子供だし目立ちたがりなのは仕方のないことなのだとは思いますが、その為ならなんの悪気も無く嘘をいくつも並べ、注目されたい割には他人にどう思われようが関係ないと平気で人の気持ちを踏み躙っていた人物が自分であったと思うのは嫌だしなんだか思考が可哀想です。
どうしてあんなことばかりしてしまったのか。
後にこの性格は私の小学校生活を破壊することになります。
中学生の時、おばあちゃんのお見舞いに行った時に寄った図書館でも手に取った本は厚い真紅色の、今の日本語とも少し違う小難しそうな本。興味を持って読んでいると自分に言い聞かせ、綺麗で広い図書館の日の差し込む窓際の席であのような本を読んでいる自分に酔いたかっただけなのです。
高校生になってからは完全に集中力を失い文字が読めなくなっていました。同じ文章を何度も何度も読んでも全く頭に入ってこないで、脳内をすり抜けていってしまう。読んでいる間に、死にたいという文字が頭の中を埋めつくしていく。読書どころではありませんでした。それから、本を読むことは一切なくなりました。高校時代、授業に行きたくない時の居場所として図書館があったのですが本は読めないので昔読んでいた漫画の絵を眺めていました。何度か通ううちに図書館の先生に睨まれている、邪魔、出て行けと言われていると思い込み行かれなくなりました。絶対そんなこと無かったのに。
長くなってしまいましたが、このように私は読書との向き合い方がとにかくゴミでした。というか性格がゴミだったのですが。
ですがその中でも何冊かハマった本はありました。学校で流行ってた妖界ナビ・ルナ、魔天使マテリアルはハマって一気に読んだ覚えがあります。中学生の時は星のカービィとHoneyWorksが好きで小説も読みました。
今思い出せるのはこれくらいしかありません。もっとそっちを大事にして欲しかったです…。
そして20歳になった今。
本当のきっかけ、一番大きかった原因はなんなのか、最近のことのはずなのですがいまいち覚えていません。
ですが、ある日塾の先生(一番授業が好きだった現代文の先生)が
「本を読むことは、心を楽にさせます。色々な悩みが小さなことだと気づけます。」
というようなことを授業を始める前置きとして話した時に衝撃を受けたのは覚えています。
どの教科も難しい教材ばかりでしたが、この現代文の教材の「論理・実用」「文学」のうちの「文学」の文章を読んでみるととても面白かったのです。前よりは文章を読む力も復活しており、論理・実用の文章より私にとって易しく読みやすい話が載っていたのでするすると私の頭の中に入ってきました。
現代文の先生の穏やかで優しい声が読み上げる物語から浮かぶ、自分とは全く異なる世界の情景。
心が荒むでしかない授業の数々の中で、この現代文の授業だけは勉強に対しても前向きになれる、安らぎの時間でした。
先生のマスクは牛の模様で、次の授業ではキリンの模様だったことも印象的でした。
塾の近くには大きな書店がありました。色々な先生が、その書店の話を出すのです。ひとつのジャンルだけでも何メートルも本が並んでいる、とても大きな書店があるのだと。
聞いている時は行く気なんて全くありませんでしたが、ふとした時塾の帰りにそこに寄ってみたくなったのです。
マップで近くの書店を調べるとそれらしき書店の名前が出てきたのでそこに向かい、大きな看板の大きな建物が見えてきました。
もっと洒落た昔ながらの建物を想像していたのですが普通に街にある大きな書店!という感じのところでした。特に今まで行ったことのある書店との違いは感じられませんでした。めちゃくちゃに大きいこと以外は。
色々見回ってみると、平積みされた本の表紙には色々な言葉が書いてあり、知らない世界が広がっていました。
インターネットで見たい言葉ばかり見て覚えていた私には言葉の未知な使い方ばかりでした。理解できないわけじゃない。寧ろ、私の脳内にたくさん入り込んでくる。
自己啓発書のコーナーでは自分でも認識出来ないほど細かな悩みや苦しみが言語化され、その対処法だけでもいくつもの種類の本が並んでいました。
インターネットがあれば悩みは直ぐに解決すると思いながら生きてきていました。その対処法を試してもどうにも出来ないから、私は諦めるしかない。それが私の中での普通でした。
でも、自分の調べたいことだけを調べても必ずしも全ての対処法を見つけられるとは限らないということでしょうか。
本に必ず答えがあるとも言えませんが、言葉にすらならなかった悩み、苦しみを言葉にし、解決する方法が色々な分野から出されているのです。表紙の言葉を読むだけで気づかされることがいくつもある。
私はなんと狭い世界に生きていたのかと思い知りました。
「死にたい」という言葉にもいくつもの言い換えがあって、意味は同じでも言い換えるだけで心が楽になってしまう事まである。
自己啓発書ってなんか偉そうなイメージしかなかったのですが、(実際に何故か偉そうなのはある)長い時間をかけて得た知見が一冊の本に書かれていて、それがいくつも存在していて、1500円ほどで買えてしまう。偉そうな口調をされても文句を言えないような気もしてくる。
知りたいこと以外までたくさん知らされて、世界を広げられてしまう。
全て鵜呑みにするのではなく、自分の中で生かせそうなことに変えてたくさん取り込んでいく。もうなんか、一冊読んだだけでも違う人間にされてしまう気分です。
小説も、自分とは違う世界を体感することが出来て、自分じゃないのであれば考え方も生き方も環境も違っていて、視野が広がるしいくつも増える。
同時に違う世界を感じることで「普通」とは「普通」ではなく、単に私を構成してきたものが作り出した私の中だけでの基準であると気付かされ、私という人間を認識することも出来ます。
自分の中で作り出されていた苦しみが、いかにちっぽけなことで悩む必要すらない事であったかを感じることができます。
自分の中で止めどなく変わりゆく感情を、同じ言葉でも色々な人間が言葉に表現していて、私は美しい表現に出会った時に特に感動します。
美しい言葉は、目に映る世界を美しくしてくれるものなのですね。
私は人間の言葉の裏の裏に隠された真意とか、嫌味は自分の思い込みか、とかとにかく内面の見えない不安に押し潰されそうになりやすいです。でも、本はそんな人々の内面を覗かせてくれるような優しさがある。全てがとは言えないですが、そもそも本は内面を表現したものなのであるから、と思いました。
本を読んだだけで作者のことを、物語の全てを知った気になるのは違うと思いますが、
内面を覗くと、その人の人生という一つの惑星を見ている気分になります。何言ってるんだって感じかもしれないですが本当にそう思ったのです。
数え切れないほど色々な人生の惑星が浮かんでいて、例え似ていても少しずつ異なり、全てを知り尽くすことは出来ない。銀河団を眺めているかのようで、特にこの大きな書店の見渡す限り本で埋め尽くされている空間は宇宙が広がっているようでした。
書店がこんなに楽しいなんて知らなかった。
私は文庫本を数冊と、好きな雑誌をセルフレジで買っていきました。セルフレジが大好きなのですが、この書店のセルフレジは特にハイテクに感じられて楽しすぎる。
そして翌日、Amazonで心に寄り添う言葉が沢山載った本と、最寄り駅の書店で楽に生きる方法系の自己啓発書を買いました。
本を読むことが心を楽にさせる。抑うつで文章を読めなくなっている状態では難しい話ですが、現代文の先生が言っていたことは紛れもない事実でした。
読んでいる時間は心が穏やかで、自分の脳内で勝手に生み出される余計なごちゃごちゃした言葉も襲ってこない。
あと、脳科学的に見ても読書はやはり人を幸せにするようです(これは本で読んだことです)
ある理由で駅巡りをすることになった時に(また別の日記で書く)だいぶ気分が沈み気味だったのですが、書店を見つけたら輝いた目で本の表紙を見渡し一冊買い電車の中で本を読む、いつの間にか至福のひとときになっていたくらいにもう虜になってしまっていました。これから読む本を探す時間と空間の幸福感に気づいてしまった。
あまりにも寝れない夜にしばらく本を読むと眠れることも増えました。ブルーライト無しで楽しめるのが最高です。
夜ってとにかく脳内で怖いほど言葉が湧いて出てきて、今書いている文章のように何かを語ることを止めてくれないのですが、本を読めばその文章のことだけ考えていられるし眠くなればブルーライトの影響を受けることもなくリラックスして眠りにつけるのです。睡眠薬を飲む回数が減りました。
朝起きた瞬間インターネットを開くとなんかだんだん一日が嫌になってくるのがいつものだったのですが、例えばちょっと面倒でもエッセイの一節を読むとなんとなく頭が整理されて今日一日読みたい本のことを考えます。
私は一気に集中して一気に飽きるし気分じゃない時とかあって一冊ずつ読み切るということは難しいので、読みたい時に読みたい部分を読んでいます。小説は時間をかけすぎると最初の方の内容を忘れてしまっているので一日一章は読み、病み気味の時は心を楽にする自己啓発書の一項目や読みやすいエッセイの一節を…とか読みたい時に読みたいものを読んでいます。楽しすぎる…
というか、これが普通なのでしょうか。みんながどんな風に本を読んでいるのかはわからない。
それもあって、読書する人の集まりに行って知ってみたいと思うまでになっています。極度のコミュ障なので何かしらやらかして落ち込んで帰るのがオチなのですが。
近くに本を読める、本が並ぶシャレオツなカフェもあるということでとにかく行ってみたいです。
ただ、とにかく疲れやすいので家でたまに横になりながら静かな部屋で本を読んでいた方が楽という気持ちを今日は優先し家で読書をしました。
それはそれとして、自分の知らない世界にいっぱい踏み込んでみたい。読書と共に色んな旅をしてみたい。
カフェのあまりにもオシャレな空間とインスタ映えしそうなメニューをネットで眺めていた時、さすがにこれは本を読んでいる自分に酔っているのでは…という感情が湧きましたが、純粋な探究心が私の中に確かに生まれていると思います。
少し前の私だったら、考えられないし考えようとしなかったことに沢山挑戦しようとしているのです。
もしかしたらカフェでの読書は私には合わないかもしれないし、単にスイーツうめぇって帰ってきて次はスイーツ目的で行くかもしれない。あんま好きじゃなかったと思って帰るかもしれない。
どれだっていい、とにかくやってみたいのです。オタクとして以外に何も興味を持てなかった自分が新たな分野でハツラツとしていることをまずは単純に褒めてあげたいです。
急に終わりますがもう思いつかないので…
カフェにはいつか行くので、その時はまた日記を書きたいと思います。